目を開けると、辺りは一面の草原だった。


数回瞬きを繰り返して、少年は眉根を寄せた。見たこともない場所。ついでに、来た覚えもない場所だった。
「…えーと」
右。左。首をめぐらせても視界に広がるのはただただ草の波だ。家もない。山の影もない。加えて人もいない。昔テレビで見た外国の映像が頭をよぎった。真っ青な空と丈の短い草の続く平野と、そこを移動する馬の群れ。ただ、今自分の前に広がっている草原は膝丈ぐらいまであって、空は不思議に白みがかっている。
(…俺、何してたんだっけ?)
確か、学校に居たような気がした。授業?部活?違う、もっと大切な何かだ。しばし考え込んだ後、諦めた。自分があまり考え事に向いていないことを、彼は知っていた。何であれ、極端に思い詰めてしまうからだ。
諦めて再度辺りを見回した。日の光は弱いが柔らかく、時折風が吹いて草がさわさわ鳴った。
(何だか良くわかんねーけど… 広いし、気持ちいいな)
不思議と焦りはなかった。元来気楽な性質なのだ。きっと歩いていればどこかに着くはずだし、誰かに会うだろう。そういかにも楽天的に結論づけて、彼は歩きだした。


不思議な場所だった。どこまで歩いても草原は草原でしかなかったが、疲れも不安も感じなかった。時間の経過も感じなかった。一歩進むごとに身体も心も軽くなって、そのうちこのまま飛んで行けるんじゃないかと思いはじめた、そんな矢先。
(!)
人影が見えた。
はっとして目を眇める。人影は遥か先、こちらを向く姿勢で立っていた。身長が随分と高い。――男だろうか。
強く風が吹き抜けた。男の長い髪がその風に靡いて、銀色に光ったのが見えた。黒い上着を着た姿は色彩の薄いこの景色の中で、奇妙にくっきり浮いている。知らず知らず歩調が早まって、程なく男の顔がはっきりとわかる距離まで近づいた。
男は、真っ直ぐ自分を見つめていた。
吊上がり気味の険しい目だが、そこからの視線は冷たいものでも、鋭いものでもなかった。寧ろ、どちらかといえば柔らかいものに感じられて、それに少し安堵した。
「なあ、あんた――」
何してるんだ、と問いかけようとして、ふと気付いた。自分もなぜここにいるのか、何をしているのかわからないことを思い出したのだ。問いかけの言葉は宙に浮いてしまって、妙に落ち着かない気分だけが残った。
――男は動かなかった。言葉も発しなかった。ただ自分をじっと見ているだけだ。
反応の無い相手に首を傾げる。自分を見つめているのだから、姿は見えているはずだ。…声が聞こえていないのだろうか?ひとまず男の横に並ぼうと、一歩踏み出そうとする。そこで、ふと足を止めた。
ほんの一歩先に、小さな川があった。
自分なら苦も無く一跨ぎで越えてしまえるほどの小さな流れだ。気にせず渡ってしまおうと踏み出した時、初めて銀髪の男が動いた。
静かに腕を上げ、手のひらを彼に向けて立てるようにする。

 『止まれ』の合図。こちらに来るな、という合図。

「え…」
何で、と漏れた言葉に、男は今度は川を指差し、黙って首を横に振った。視線は相変わらず静かに自分に向けられていて、その静けさがかえって、堅い拒絶を感じさせた。
……川を、渡ってはいけないということなんだろうか。
「――でも」
改めて、足元の小さな流れを見やる。幅こそ細いそれは実に長々と二人の間を横断していた。どこからどこへ流れているのか、少なくとも今の場所から途切れた箇所は見当たらない。この川を越えなければ、この先に進むこともできないし、男の横に立つこともできないのだ。
困惑しきった表情に、目の前の男は少し微笑んだ。小川を間に挟んだまま、自分へと手を伸ばす。指先が目元に触れて、軽く撫でられた。暖かい指だった。その指が離れて、自分の背後に広がる草原を指差す。戻れと、そういうことなのだろう。
折角ここまで歩いてきたのにな、やっと人に会えたのになと、残念に思いながらも素直に頷き返した。越えてはいけないと、自分より先に着いていた男がそう言うならば、きっと何か理由があるのだ。それでも去り難くて、もう一度男を見上げる。
「…振り返らずに行け」
初めて、男が言葉を口にした。低い穏やかな声だった。その声に再び頷いて、今度こそ踵を返す。一歩、二歩。小さな川と、その向こうに立つ男から離れてゆく。歩みを重ね、お互いの姿が小さくなり始める頃。
――後ろから、声が届いた。

『そのまま行け。…そのまま、お前は真っ直ぐ進め ――タケシ』

タケシというのが自分の名前だと気づいた瞬間、全ての記憶が蘇った。



同時に、世界は白く飛び散った。





「山本!!」

切羽詰った声、そして激しく身体を揺さぶられる感覚に、急速に意識が浮上した。
……頭が痛い。それでも全身を蝕む痛みと熱は記憶にあるよりずっとずっと治まっていて、山本武はゆっくりと目を開けた。
視界に映るのは親友たちや先輩たちだ。一番近くで、大きな瞳に焦りを一杯に浮かべて自分を見詰める綱吉を見て、山本はようやく自分たちの状況を思い出した。注入された毒の効果はもうほとんど消えている。皆が解毒してくれたのだろう。
体を起こすと、まだ視界がぐらぐら揺れた。咄嗟に手を伸ばした獄寺に支えられながら、山本は綱吉に向けて笑った。
「ありがとな、ツナ」
「山本、良かった…!」
泣き笑いを浮かべたツナの表情が、ふと、曇った。それに気づいた獄寺が山本の顔を覗き込み、ぎょっとして固まる。二人の視線を受けて山本は小さく首をかしげた。――どうかしたのだろうか?
数秒の沈黙をおいて、綱吉が呟いた。
「……どこか痛い? 大丈夫?」
「? 俺大丈夫だぜ?」
気遣わしげに綱吉の手が伸びてきて、そっと山本の頬を撫でた。至近距離から見詰める綱吉の瞳が揺れている。動揺しているようだった。

「涙、が」

「…え――」
頬に手をやると、確かに濡れた感触が伝わってきた。
「…やまもと」
「何か、あったの?」



別に何も、そう答えようとして何かが記憶を掠めた。
白。銀色。水。そこにいた誰か。
「…そういえば、何か、夢を――」



夢を見たんだ。


言葉は続けられなかった。涙が、堰を切ったようにぼろぼろと溢れ出してきて新たに頬を伝った。綱吉も獄寺も呆気に取られて山本を見つめた。山本自身も呆然として、自分の目元に触れた。その指先が小刻みに震える。何かを思い出しそうだったが、それは思考の網を摺り抜けて消えていった。

「――山本」
「…悪ぃ、どうしたんだろ…」
覚えてないんだ、覚えていないけど、すごい哀しい。



山本の涙は止まらなかった。途方にくれたままおずおずと手を伸ばして、綱吉は山本をそっと抱きしめた。憮然とした表情で、でもどこか痛みを堪えるような表情で、獄寺が山本の背中を静かに撫でた。
ごめんな、ありがとな、と何度も山本が繰り返す。…自分たちに? それとも、別の誰かに?



夜は未だ深かった。
夜明けまではまだ、遠かった。







解毒前の妄想その2でした





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