部屋に戻ると、灯りはまだ点いていなかった。
電灯のスイッチを入れて、壁に掛けられた時計を見る。時刻は既に八時を回っていた。日の長い季節とはいえ、とうに辺りは夜の闇に包まれている。窓は閉まっていて、昼間の名残のぬるい空気が、じっとりと顔を撫でていった。
バルコニーに面した窓を開けるついでに、周囲の部屋を覗いた。リビング、キッチン、自分の部屋、自分のもので無い部屋、倉庫。――まず居ないだろうと思いはしたが、確認だ。そして、案の定そのどこにも探した姿は見当たらなかった。
溜息を吐く。まだ全くイタリア語も英語すらも喋れず、周囲ニ百メートルの地理の把握も覚束ないうちから、己の同居人はこうして時折姿を消す。
それでも、焦りはしなかった。行き先は既に経験が知っている。手にした荷物を乱暴に床に放って、踵を返した。
背後でオートロックが下りる音がした。
――スクアーロが山本武と暮らし始めて、もうすぐ一年になる。
- - -
七階建てのマンションを出て、大通りから伸びた細い道に入る。幾度か角を曲がりつつなだらかな上り坂をしばらく歩けば、塀と塀の間にひっそりと紛れるような公園がそこにはあった。入り口こそ狭いが中は扇状に広がっている、そこそこの規模の公園だ。
照葉樹が多く、噴水の為に常にひんやりと水分をはらむこの場所を、山本が好んでいることは良く知っていた。水気を含んだ空気、柔らかな緑色。それは自分が過去に二度訪れた極東の島国を連想させるもので、スクアーロは一度だけ、日本が懐かしいのかと山本に訊いたことがあった。一瞬、戸惑ったように目を瞬かせてから、山本は僅かに瞼を伏せて「少しだけ」と、そう答えた。
「そうか」とそれだけ答えて、その話はそこで終わった。
以来、その質問を繰り返したことはない。
予測していた通り、山本は噴水のある広場の横、木が緑を茂らせている下にいた。所々雑草が顔を出している芝生の上、両手を頭の下に組んで暢気に横になって、空を仰ぐように見上げていた。街灯の光を淡く照り返す緑色の上に、真っ黒な髪が散って映えている。
その傍らに大股で歩み寄って、無防備な頭を軽く靴先で蹴りつけた。いててと声をあげる山本に現れたスクアーロに驚いた様子は無い。近づいてきた気配に気づいていたのか。それとも、自分がこうして探しに来ることを予想していたのか。……恐らくその両方だろう。どちらにしろスクアーロにとっては、あまり愉快なことではなかったが。
「――こんな時間までお前はまた、何やってやがる」
もう八時過ぎだぞ。そう不機嫌を隠さず口にすると、「え!やっべ!」と初めてそこで山本は焦った仕草を見せた。慌てて身体を起こし、済まなさそうに身を縮めてスクアーロを見上げる。ごめん、と謝る声に溜息をついた。自分の気配には気付けても、どうやら時間の経過には気付いていなかったらしい。
「今日からメシ当番お前だろうがぁ」
「……ごめん」
「飯も忘れて、何にそんなに夢中になってたよ?」
「…うん、ちょっとな」
星がきれいだったから。
呟いて、足元の少年は小さく空を仰いだ。
「星だぁ?」
「ん。ここ、星がよく見えるんだ」
街の灯りが届かないからかな。そう一人ごちて、すっとその手を天に向けて伸ばす。掲げられた指が夜空を点々となぞる動きをした。
「知ってるか?あれがアルタイル、あれがベガな。あそこにあるのはデネブ。三つ繋げて、夏の第三角形って言うんだぜ」
「……お前も根っからの馬鹿というわけではないんだな」
どこでそんなことを覚えた、と半ば揶揄するように訊いたスクアーロに、山本は笑みを浮かべて答えた。
「野球の練習のときにな。夜遅くまでやってたし」
「………」
「……なんか、空見る事が多かったんだよな」
でもやっぱり日本とイタリアじゃ、見える星がちょっと違うのな。地球って丸いんだな。そう感心したように呟いて、山本は空を仰いだままだ。
つられたようにスクアーロも空を見上げた。満天とまではいかないが、それでも意外に沢山の星の光が目をうって、少し驚いた。考えてみれば夜空を見上げて星を確認するようなこと自体、初めてであるように思えた。
一瞬、見たこともない、遠い島国の夜の景色が頭をよぎった。
土に塗れたユニフォーム姿で、めいめいに野球の道具を抱えて帰途につく少年たち。すっかり夜の帳の降りた中、空を見上げて星を指差し、笑いさざめきながら、挨拶を交わしながら、それぞれの家へ小走りで帰ってゆく。
玄関先に点った穏やかで暖かな灯。迎える家族の声。穏やかで暖かな日常の風景。
――自分の知るはずのない、そんな景色が。
(……1年か)
すとん、と、その時間の長さが胸に落ちてきたのを感じた。
生きること。生活すること。日々の暮らしを送るということ。…この1年でスクアーロが山本に教えられてきた、自分のものとは違う世界。
人間らしく色づいたそれは、今まで自分には縁の無かったものだ。必要などないと思っていたものだった。
そして、まるでそれと引き換えにするかのように、山本に命の絶ちかたを教えてきた。最小限の力で済む剣の振りかた。少しの衝撃で意識を奪う急所。それは今までずっと、山本に必要などなかっただろう知識だ。
――1年前、日本のあの平和で平凡な街が襲われて、彼の世界が壊れるまではずっと。
報せを受けて二年ぶりに訪れた小さな街を思い出す。
瓦礫と砂煙と人の悲鳴と叫びと、倒れ伏した命のある者と無い者と。血の赤と炸裂する光の白と。その中で、大切な人達の血に染まって呆然としていた少年の姿と。
思考を断ち切るようにひとつ頭を振った。
おら帰るぞ。そう言って手を差し出す。その手を掴んで立ち上がろうとした山本の視線が一瞬、自分の肩越しにまた夜空に向けられたのがわかった。それにスクアーロは何度目かの溜息をついて、ぼそりと呟いた。
「…足元気をつけろ。転ぶぞ」
恐らくは、掛けるべき言葉を間違っているのだろう。
本当は見るな、と言わなくてはならない。空など見上げるな。星など見るな。そんなものは、もう必要のないものなのだと。
(…らしくもない)
ボンゴレの守護者を保護せよ。そして、ゆくゆくはマフィア組織・ボンゴレの力となるように育成せよ。…それがシャマルやスクアーロやコロネロ初め、守護者達を預けられた者達の任務のはずだ。――それなのに
(変わらずにいろ、と思ってしまうなどと)
「夕焼けきれいだったし、明日もきっと晴れなのな」
「――そうだなぁ」
振り返る笑顔は、今はまだ、初めて会った頃のままだ。
鮫山祭参加物
一番はじめにできた話
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