「コレ、クダサイ」
掛けられた声に視線をあげて、思わず相手をまじまじと見つめた。
たどたどしいイタリア語で牛乳を差し出したのは、漆黒の髪の東洋人だった。髪に対して色素の薄い大きな瞳が、多少緊張した眼差しでこちらを見つめている。見覚えのない顔だ。――この界隈で東洋人は珍しい。
雑貨や食料品類を扱うこの店は、私が4代目の主人になる。メインストリートから少し離れた路地のさらに奥まった場所に構えられた、お世辞にも大きいともきれいとも言えないこの店を訪れる客は、ほとんどが周辺に住む馴染みの客だ。牛乳を受け取ってレジを叩きながら、好奇心も手伝って話しかけた。
「中国人かい? 初めて見る顔だね」
「――?」
まだ少年といった年頃の顔が、困ったような、済まなさそうな表情になる。通じていないらしい。
「出身はどこだい?」
つとめて簡単な言い方を選んでみた。今度は単語を理解できたらしく、少年の表情がぱっと明るくなる。いい笑顔をしていた。肌の色や国籍に関係なく、いい笑顔をする人間に悪い人間はいないというのが私の持論だ。
「ニホン!」
「へえ! 随分とまあ遠くから来たんだね。留学生? 観光じゃあないみたいだけど」
「…カンコウ、チガウ」
「じゃあ、やっぱり学生なのかい? それにしちゃ」
「―――ヤマモト!」
その時、外から呼ぶ声がした。続いた言葉はイタリア語ではなかった。少年が振り返って何か返答する。扉が開いて、銀色の長髪を後ろで束ねた若い男が店を覗き込んだ。
そちらの男には見覚えがあった。お得意様と言ってもいい。夜がだいぶ更ける頃にこの店に来て、雑貨品などを買っていく。……身に纏う雰囲気といい目付きといい、堅気の仕事をしているようにも思えなかったが、それは店にも自分にも関係のないことだった。立地条件のためか、午後遅くに開いて夜遅くに閉じるというこの店のサイクルのためか、そういう類いの人間は実のところそれほど珍しくなかったし、何より私と店にとって大事なのは彼等が私たちにとって良いお客かどうか、ということなのだ。
少年と男は二言三言言葉を交わす。何とも奇妙な組み合わせだった。人種も、年齢も、持っている空気も何もかもが違う。外見的に血縁関係があるようにも見えないし、年齢的に友人関係にも見えない。それでも、ある種の信頼関係のようなものがその間にあるのは見て取れた。
男の声が突然荒々しいものになる。何事かを少年に言い聞かせているようだった。きょとんとした少年が首を傾げて不思議そうに答え、笑う。男は更に言い募ろうとして、だが諦めたように首を振った。
嘆息をついて何事かをぶつぶつ呟く男の声に、不意にイタリア語が混じった。
「――くそ、」
「……だからお前は放っとけないんだ」
発せられた声と言葉は苦々しげだというのに、そこに含まれている響きは驚くほど柔らかかった。
夜にこの店を訪れる、暗闇に溶け込むような男が発したものとは思えないそれに思わず一瞬目を見張る。幸い、男には気付かれなかったようだった。こちらに向き直った少年が私の表情を見て少し不思議そうな顔をしたが、それも釣り銭を受け取ったときの笑みですぐ消えた。
たどたどしい、アリガトウ、という言葉だけ残して扉が閉じる。その音を聞きながら、徐々に頬が緩むのを抑えることはできなかった。
- - -
――それがもう、一年ほど前の話。
「この店は、ケーキなんかは置いてねえのか」
掛けられた声に視線をあげて、あのときと同じようにまじまじと相手を見つめた。だが今日の相手は一年前の少年ではなく、銀髪の男の方だ。
「あいにく置いてないねえ」
軽く手を振って否定の意を示す。「――あんた来る店を間違えてるんじゃないのかい」
そんなものを置く店でないことぐらい分かっているはずだ。男はむっとしたように眉間に皺を寄せたが、すぐに諦めたように肩を竦めた。もっともだと思ったのだろう。
(ケーキねえ…)
そのまま踵を返して店の出口に向かう男を見送りながら首を傾げる。この店にあの客が来るようになって長いが、今まで一度もそんなことを聞かれたことはない。何があったのか、いや何があるのだろうかと思いを巡らせて、そこではたと気が付いた。
「――あー、兄さん、ちょっと待っとくれ」
扉に手をかけていた男は、何事かというように眉をひそめてこちらを振り返った。
「ケーキは無いけどね、ほら」
そうして手にしたものを掲げる。「……小麦粉はあるよ。新鮮な卵も、砂糖やバターもね」
「―――?」
「果物は缶詰でよければチェリーと桃がある。牛乳は家にあるだろう? 昨日あの子が買っていったから」
あれ以来少年は一人で、時にはこの男と一緒に、私の店に来るようになった。この一年でイタリア語もだいぶ上達した。あの片言の言葉が少し懐かしくなる時もあるが。
「………」
「それから、これはおまけ」
カウンターの上に、色とりどりの小さな蝋燭を並べる。
「――レシピは私が書いてあげるよ。初心者でも分かるようにね」
「………何だっつうんだ」
「誕生日なんだろう? あの子のさ」
あからさまにぎくりと男の肩が揺れた。
「そりゃ、誕生日にケーキは必需品だからねえ」
「――俺に作れと?」
「いいんじゃないかい? 喜ぶよ」
棚から取り出した食材を手早く紙袋に詰めていくのを見て、「おい!」と男は焦ったように声をあげた。視線をあげて、にっこりと有無を言わせぬ笑顔を浮かべる。
「8ユーロね。レシピはこっち。」
「………。」
さて、男は住処に戻ってケーキを焼いただろうか?
それはきっと、あの少年と男だけの秘密になるだろう。
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