殴られた、と解ったのは、倒れた目の前に男の足が映ってからだった。
一瞬、意識が飛んだ。それほど容赦のない一撃だった。右頬がじんじんと痛み、あっというまに血の味が口の中を満たしていく。遠くで獄寺の怒鳴り声が聞こえたが、それも鈍い音の後まるっきり聞こえなくなった。
必死で身を起こそうともがく視界の中、打ちっ放しのコンクリートの床の上に、堅い音を立てて革靴が止まった。ついで黒のスラックスに包まれた膝が目に入る。髪を掴まれ顔を上げさせられた前に、昔と変わらない―― いや、昔以上に苛烈な、真っ黒な瞳があった。

その瞳から、目が離せなかった。

「……ひ、ばりさ、ん」
「今更何をしにきたの」
無理な体勢を取らされて息が詰まる。それでも目が逸らせなかった。十年前は何の感情が浮かんでいるのか、にわかには判別もできなかったその瞳。それが今たったひとつ、明らかな色に染まっている。身震いするほどの怒りだけに染まって、自分を射抜いている。
ぎりっと掴む力を強められて、思わず痛みに呻き声を漏らした。それに全く頓着することなく、むしろその力を強めながら、雲雀恭也は淡々と言葉を重ねる。
「―― そんな十年前の姿なんかで、今更何をしにきたの」
「…おれ、は」
「すべてを巻き込んで取り残して、勝手にいなくなった人間が―― 今更、何をしに戻ってきたの」
「……おれは、なにも」


瞬間、振り払うように乱暴に手を離された。同時に風を切る音が響き、側頭部に衝撃が走る。脳髄を揺さぶられるような感覚に、体が傾いで再び倒れ込もうとしたが、雲雀は襟元を掴んでそれを許さなかった。
「…“なにも”?」
掴んだ手は、そこに込められた力で真っ白に染まっていた。
「……ふざけないでよね、『ボス』」
頭からこめかみ、そして頬を伝って、何か暖かいものが流れ落ちていく感触がする。目の前がぐらぐらと揺れた。吐き気がした。だがそれは、殴られたショックによるものではなかった。そんなものではなかった。


(未来)
(これが、未来?)


「――雲雀!!」
扉の開く音に続いて、叫ぶ声がした。山本だ。うろたえたように、縺れかけた足取りで駆け寄ってくる気配がする。
「獄寺! ツナ……! 雲雀おまえ、何やってんだよ! こんな、なんでこんなこと」
山本が近づくより先に、投げ捨てるように無造作に手は離れていった。平衡を失った身体は、床と衝突する前に慌てて手を伸ばした山本に受け止められる。大丈夫かと気遣う山本の肩越し、ぼやけた視界の中で自分を――いや、自分と山本を、雲雀はこの上なく苦い表情で見下ろしていた。そして、呟いた。
「…なぜ君がこいつと群れていられるのか、その方が僕は不思議だよ」
「雲雀、いい加減に」
「本当に馬鹿だね。――ろくに笑うこともできていないくせに」

その一瞬。ほんの一瞬だけ、傷の手当てをする山本の手が止まったことに、気づいてしまった。



− − −




もーいい明日また出直すから、という山本の言葉だけ残して、結局三人は手ぶらでアジトへ戻る事になった。
昨夜と同じように潜り込んだベッドの中、そっと頭に巻かれた包帯に手をやった。血はとうに止まったものの、傷はまだ鈍く痛んでいた。居住区の簡素な椅子に自分を座らせて、ごめんな、と眉根を寄せてそれを巻いてくれた山本の表情を思い出した。治療を終えて、ありがとう、とお礼を言ったときの困ったような笑顔を思い出した。

(……本当に言いたいことは、お礼じゃなかったんだ)

本当は、謝りたかった。
ごめん、俺が不甲斐ないせいでごめん、みんな巻き込んでごめん。でもそれを言うには、もう時間が経ちすぎていることにも気づいていた。謝ってはいけないんだ。―― それは、彼らのこの十年間の否定になる。

(ごめん)

口に出すことができない謝罪を、何度も心に繰り返す。君が何も変わってないなんて、そう思ってしまったなんて、おれはバカだ。十年後に飛ばされてもなお、あの人の辛辣な言葉と暴力を浴びるまで、自分の負ったものの重さにも責任にも気づかなかったなんて、おれはなんてバカだったんだ。
いろんなことに知らない振りをしてきた。結論を出さないできた。――全ては先延ばしにも、誤魔化しにも、できるものではなかったのに。
暗闇の中、様々な光景が浮かんで消えた。好きな女の子の顔。台所に立つ母親の後姿と鼻歌。日のあたる屋上とそこに流れる煙草の煙。勉強机に腰掛けてこちらを振り返る、黒ずくめの小さな姿。教室のざわめき。放課後の夕焼け。……十年前の笑顔と、今日見た笑顔。

泣かない。もう、泣く事などしない。


(――強くなる)


強くなる。強くならなければいけない。大事なものの何ものも失くさないように。大事なものを、何ものからも守れるように。



胸元のポケットに入ったままのお守りをぎゅっと握り締めて、目を閉じた。
もう涙は出なかった。













沢田綱吉の日付が変わる日を待ち望んでいます。(ネウロ的表現)





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