大切な人がいる。
自分よりも大切と思える人が。

そして大切だからこそ起こる、小さな軋轢がある。









「ゼル〜〜」

呼びかけられて顔を上げると、食堂の入り口からアーヴァインが手を振っていた。
「……おう」
「何、今日スケジュール空いてたの?」
また随分と暇そーだねえ、などと言いながら、アーヴァインはゼルが突っ伏しているテーブルの向かいに座る。それを目で追いながら、ゼルは元気のない声で答えた。
「――うん、まあな。」
「ゼルが暇持て余してるなんて珍しいね〜」
「俺だってヒマしたい時があんだよ」

――嘘だった。
…本当は、ヒマな振りをしているだけなんだけど。

「ふ〜ん」
再び机の上に伸びたゼルをじろじろ眺めながら、アーヴァインは何か興味ありげな声を漏らした。まるで観察をされているようで、見つめられている方としては段々と居心地の悪い気分になる。……それでもしばらくの間、その視線にそ知らぬ振りをして耐えていたが、元々堪え性のある性分ではない。段々と、苛々が溜まってゆく。
――てゆうか、言いたいことあるならさっさと言いやがれよ、こいつ。
――あああ、もう我慢できない。

「――おまえなあ……!」
「目」

怒鳴りつけてやろうと顔を上げた瞬間、それを待っていたようにアーヴァインは指を突き付けた。

「赤いよ。どうしたの?」

噛み付こうとしたその体勢のまま、不意をつかれてゼルは硬直する。かあっと一気に頬が熱を持つ。
慌てて再び顔を俯かせた、その釣り上がり気味の目尻を軽く指で払ってアーヴァインは続けた。
「…な〜んか、ひょっとしてゼル、泣いてた?」
「ばっっ!て、テメーと一緒にすんじゃねえ!!泣いてなんかいるわけねーだろボケ!!!」


またもアーヴァインに食って掛かって襟首を締め上げてやり、結局その場はそれで有耶無耶になった。




・ ・ ・





(……あー、マジで目え赤いじゃん…)

一通りアーヴァインをのした後、ゼルは速攻で部屋に戻った。
洗面所の鏡に写る自分の顔は確かに幾分目や目尻が赤くなっていて、溜息を誘う。
それでも流石に昨日寝る前の状態よりはマシになって、目元の腫れもおさまっているけれども。……尤もそうでなければ、アーヴァインの前で誤魔化すことなどまず不可能だっただろうけれど。
「―― 一晩泣いてりゃあたり前だよな…」
呟くと、昨日からの疲れがまたどっと出てきた気がして、ベットにぼすんと身を投げ出す。
蛍光灯の白い光を遮ろうとして左腕を瞼の上に乗せると、目元はまだほんのり熱を持っているように思えて。

「……馬鹿みてえ、俺。」

呟いた声は、冷たく冴えた空気に小さく響いた。






事のはじまりは昨日の夜だ。
ここの所、ゼルは夕食を食べた後、シャワーを浴びて就寝するまでの間に軽く訓練施設で体を動かすことを、日課にしていた。
自主トレーニングは今までも欠かしていなかったが、今回は少し事情が違う。
――サイファーが、稽古を付けてくれているのだ。
『月の涙』の影響もようやく収まって、SEEDへの以来も減りつつある昨今。「ここんところ腕が鈍っちゃってさ〜」という自分の何気ないぼやきに対して、「じゃあ、手合わせしてやろうか?」という答えが返ってきた時には、思わず耳を疑ってしまったけれど。サイファーは毎日、ゼルに付き合って訓練施設に通ってくれている。
どうしてサイファーがそんな気になったのかは解らないが――多分いつもの気まぐれなのだろうけど――、稽古を付けてもらえる事、そして一緒に時間を過ごせることが、単純にゼルには嬉しかった。


そんな経緯を経て、昨晩もいつもと同じようにサイファーを誘い、訓練施設へと向かったのだが。






訓練施設は空いていた。
小1時間程度手合わせで汗を流し、ストレッチで体を伸ばした後、2人は施設の出口へと足を向けた。そのまま施設に併設されているロッカールームで飲み物片手に雑談して、それからそれぞれの部屋に――時にはどちらかの部屋に――戻る。それが2人のいつものパターンだ。
勿論、訓練施設なのだからモンスターも出る。任務ではないからジャンクションも最低限しか行わない。しかし今の二人の力なら、訓練施設にいるモンスターなど問題にもならなかった。例え稀にエンカウントするアルケオダイノスであっても、余程不意を突かれたり調子が悪かったりしない限り、問題無く倒すことが出来るだろう。

自惚れでも傲慢でもなく、ゼル達SEEDはそうした己の『力』をしっかり把握している。


――しかし、その自覚が2人の油断につながったのは、否めない。




後もう少しでゲートという所で、2人は背後に獰猛な息遣いを聞いた。
聞き慣れたその音。だが、それは今までに無く近い所から響いて来て。振り返った2人はほんの数メートル先の鬱蒼と茂った木々の間に、赤褐色のごつごつした赤い皮膚を見た。
恫喝するように吼える声が辺りの空気を振るわせる。そして次の瞬間、アルケオダイノスは2人の方へ突進して来た。


行動を起こしたのはサイファーが先だった。
肩に担いでいたハイペリオンを瞬時に手に構え直し、目の前の巨体へ振り上げ、振り下ろそうとする。しかしその一連の動作の僅かなタイムラグの間にも、アルケオダイノスの牙が猛然と迫って来る。
鋭い歯列は、見紛う事無く、真っ直ぐにサイファーの喉笛を狙っていた。


――間に合わない。


数瞬遅れて駆け出した足に渾身の力を込め、無我夢中で地面を蹴ってゼルはサイファーを突き飛ばした。横からの衝撃によろめくサイファーの脇を、紙一重で鈍い光を放つ牙が通過してゆく。獲物を逃し、今度は自分をターゲットとして向いたその鼻面に、ゼルは手持ちの『北極の風』を全て、叩き付けた。
強力な冷属性を持つそれに怯んだのか、アルケオダイノスが数歩後退する。動きが鈍ったそこに、間髪入れず立ち直ったサイファーが切りつけた。


弧を引く赤い飛沫と、モンスターの断末魔の叫び。
ドウン、と倒れ伏した体は更に止めを刺され、数回の痙攣の後、それきり動かなくなった。




「………」

――ふ、と肩で息をつき、サイファーがハイペリオンに着いた血糊を払う。その横でゼルは、ぺたりと地面に座り込んで暫らく声もあげられなかった。
「……おら」
歩み寄って来たサイファーが、ぶっきらぼうに手を差し出す。
「………あんがと…。」
その手につかまって立ちあがろうとして。

「イテ」
伸ばした右手の、二の腕の辺りに痛みが走った。

反射的に左手で痛みのあった辺りを押さえると、ぬるりとした感触があった。
手のひらを見るまでも無く判る。……血、だろう。いつ傷つけたのか、バトルに集中していた余り全く気付かなかったが。
少しずきずきするが、大した痛みでは無い。思うに、広いが浅い傷なのだろう。
(――あ〜あ、利き腕なのに。)
溜息をついてそろそろと肘を曲げたり伸ばしたりしてみる。幸い、神経や筋肉には影響無いようだ。
ほっと胸を撫で下ろしたその時、頭上からサイファーの声が降って来た。
「……どこかやられたのか?」
「うん、ちょっと」


切ったみてえ、と答える前に、怪我をした方の腕を思い切り引っ張られた。
「!!!いってえっ!!」
思わず悲鳴を上げて、キッとサイファーを睨み上げる。
「何――」





瞬間、サイファーの視線に射抜かれた気がした。
それぐらいに鋭く冷たい光を放つ一瞥。

視線と共に、低い声が向けられる。



「……何で庇った」




「え?」


問い掛けられた意味が掴めなくて。瞳を逸らせないまま、ゼルはサイファーをぽかんと見上げる。その視線の先でサイファーは苦虫を噛み潰したように顔を歪ませ、自分を見下ろしていた。
――ここ暫らくゼルの前で見せた事の無い、心の底から不機嫌そうな表情。


(……怒ってるのか?)
その表情に、ゼルはたじろいだ。
怒っている。――しかも、すごく。



(でもどうして?)



ちょっと後ろに引きつつ、まじまじと自分を見つめるばかりのゼルに業を煮やしたのか、サイファーは声を荒げて繰り返した。
「――さっきだ。何であんな真似をした?!」
「――何でって」
決まってる。サイファーが危なかったからだ。

何でそんなことを聞かれるか解らないという顔をするゼルを、サイファーは怒りの篭った目で睨んでくる。

「……俺を庇ったつもりか?」
「――な……ンだよ。お、俺があんたのこと助けちゃ、いけないってのかよ!」
「………」



苛々したような舌打ちに続いて、一言。

サイファーは、ゼルに向けて言い放った。







「――お前に助けてもらうほど、俺は落ちぶれてねえつもりだぜ?」








「………ちくしょ。」
思い出したら再び怒りが込み上げて来て。うつ伏せに寝転んだまま、ゼルはぼすりと枕に拳を打ちつけた。
昨日で泣き尽くしたと思っていたのに、新しい涙がまたじわりと目尻に浮かんでくる。

サイファーが強いのは、よく知っている。それこそ、自分の手助けなど、まるでいらないみたいに。
――だからって。
「……あんな言い方、しなくたって…」




あの後、かあっと頭に血が上って、目の前が白くなって。気が付いたら、思いっきりサイファーの事を殴り飛ばしていた。
サイファーは流石に直撃は食らわなかったけれど、それでも手応えは結構あった。
2、3歩よろめいて、頭を振って、顔を上げて。こっちに視線を移して。


――その目と視線を合わせるのが怖くて、そのまま踵を返して訓練所を飛び出した。





それから一晩。サイファーとは一度も顔を合わせていない。
食堂に来るのでさえサイファーとぶつかりそうな時間は避けた。訓練施設には、行く気すら起きなかった。

ただひたすら、会いたくなかった。
怒りだけではない。気まずいというのとも違う。自分でも判別がつかない靄々した感情の塊がゼルの中にわだかまって、胸をつかえさせている。
ぎゅっと締め付けられるように心が苦しくて。
悔しくて寂しくて。 遣りきれなくて。




(――オレ、そんなにサイファーに信頼されてなかったのかよ)



ぽつん、と雫が枕に落ちる。



魔女戦の後、想いが通じ合ったと思った。
ただの友人より、ずっとずっと近い位置にお互いを引き寄せたと思った。肩を並べて、一緒に歩いていけるようになったと思った。

でも、それは自分の思い過ごしだったんだろうか。
そう思ってたのは自分の勝手な想像で、今もサイファーにとって自分は取るに足らない、ただ煩わしいだけの存在なんだろうか?




そう思ったらやっぱりまた泣けてきて。ゼルは枕にぎゅうっと顔を押し付けた。






・ ・ ・







――意識の外に小さな、でも執拗な音を捉えて、ゆっくりとゼルの意識が浮上した。

部屋の中には夕闇が降りていた。
薄暗い部屋の中。ぱちぱちと何度か瞬きを繰り返して、ようやく自分がどこに居るのかを思い出す。あの後、ベッドの上でごろごろしながらいつの間にか自分は眠り込んでしまったらしい。
目をこすりながら起き上がって時計を見る。針は6時を過ぎた辺りを差していた。


(……結構、寝ちまったな…)

ぼんやりと考えていたゼルの耳にその時、目が覚める前に聞こえたのと同じ、硬質の小さい音が届いた。
固く閉じた、個室と廊下を隔てる扉から。



誰かがドアを叩いている。



「――誰だ?」
どうせまた目が赤くなっているんだろう。そんな情け無い顔を見せたくなくて、ゼルは閉じたままの扉の内から声を返した。出来る事ならこのまま、ドアを開けないまま用事を済ませてしまいたい。


「……?」
ドアの外は無言のままだった。
不思議に思って再び、ゼルが声を掛けようとした矢先。



『――俺だ』

「!!」



今、一番聞きたくない声が聞こえた。
しまった、とゼルは唇を噛む。返事なんて、するんじゃなかった。居留守を決めこんでおけば良かった。

どんな反応を返すのにしろ、まだ心の中は全然整理できていない。眠り込んでしまう前に考えていた色々な事がまた、いちどきに頭の中に押し寄せて来て。ぐるぐると渦巻いては消えてゆく。


『……ゼル、そこに居るのか?』

ゼルのそんな葛藤にはお構いなく、外からはまた声が響いてくる。
明らかな苛立ちを含んだ声。その声に、我知らず表情が強張ってゆくのを感じた。



――怒っているんだろうか?

でも今回は謝らない。絶対に謝らない。
――だって、悪いのは俺じゃない。


悪いのは、サイファーだ。



何秒か、何十秒か。ゼルにとってひたすら長く感じられた沈黙の後。
不意に。息を詰めるみたいにして寄り掛かっていたドアの向こうで、大きな嘆息が聞こえた。



―― そして、声




『――悪かった』
扉越しに、淡々と聞こえてくるサイファーの声。




『……言い方を、間違えた。』

「―――」

『俺の所為で、お前に怪我して欲しくない。――そう言いたかった。』

「――――」

『………お前が怪我するところなんざ、俺は見たかねえんだ。』





「――ばっっっかじゃねえの!?」




次の瞬間。気付いたらドアを開けて叫んでいた。

「何言ってんだよ!そ、そんなの俺だって同じなんだからな!!」



目の前にサイファーの驚いた顔。





「俺だって――俺だって、目の前であんたが怪我するのなんて見たくないんだからな!!」






「…………」

再び訪れた沈黙の後。


サイファーはいつものようにゆっくりと、片側の口元だけを吊り上げて笑った。
同時にゼルの頭をかき回す、大きな手。


ぐっとその手に抱き寄せられて。





「――― そうだな」





引き寄せられた耳の側で、低い声がそう、囁いた。











大切な人がいる。
自分よりも大切と思える人が。
そして大切だからこそ起こる、小さな軋轢もある。

だけど。
大切な人だからこそ、そんな小さなすれ違いを
きっと一緒に乗り越えて行ける。







                                                  END





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