覚えているのは。
沢山の手が伸ばされるバス。
泥でくすんだ窓ガラス。
出発まぎわに窓から体を押し込んだ力強い大きな手と。
出発するまでいとおしむように頬を撫で続けていた暖かな手。
 
   
   
食い入るように、いつまでも俺を見送った、二対の青い目。
 
   
   
今なら解る。
あれは。
たぶん。
 
   
   
   
   
   
   
   
   
  
(……まただ)
ベッドに起き上がって、夢の残滓を払うように頭を振った。
――トラビアに着いて3日。バスケットコートで昔の記憶を取り戻して以来、俺はずっと同じ夢を見続けている。

 
…いや、あれ以来、という訳ではないのか。
ホントはもっと昔、まだガキの頃も見ていたから。
……GFの所為かなんなのか、その事さえもすっかり忘れていたけど。
熱で魘された時や、気持ちが不安定な時に見て。そのたびに俺はただただ不安に駆られて泣いて、母さんやじいちゃんのベットに潜り込んでいた。

夢の内容なんて深く考えやしなかったけど、押しつぶされそうな不安と、何かに縋らなければ耐えきれないような寂しさだけは、今でも良く覚えてる。
 
   
   
   
 
 
窓の外は暗かった。時計を見ると、まだ4時も回ってない。
寝直そうともういちど頭からブランケットをかぶりなおしたけど、じきに諦めた。目が冴えている。こんな状態で今寝たって、どうせ同じ夢を繰り返し見ちまうだけだ。

寝巻き代わりのTシャツの上からフリース生地のパーカーを羽織って、俺は窓際に歩み寄った。曇っている窓ガラスを掌でごしごしと拭くと、まだ闇に沈んでいるトラビアの森が、ぼんやりとガーデンの常夜灯の中に浮かび上がって見えた。その上に重なるように映る、自分の顔。
(…みっともねー……)
刺青代わりのペイントは落ち、いつもきっちり上げている前髪はぐしゃぐしゃになって額にかかっている。長い前髪の間から覗く目は、憔悴を含んで濁っているように見えた。
良く眠れてない所為か、心持ち目尻が赤く腫れている。まるで泣いてたみたいに。
(…何やってんだよ、俺。)

溜息をついたら、窓ガラスがまた白く曇って、情け無い自分の姿を消してくれた。

 
 
 

 
自分が孤児で、両親と血が繋がってないという事実は、それ程俺にとって問題ではなかった。
ショックじゃなかったって言ったら嘘になるけど。正直な所、ピンと来なかった。
今まで自分が両親やじいちゃんにホントの子供みたいに育ててもらったっていう方が、俺にとっては何よりも動かし難い真実だったから。

 
 

だから問題だったのは、寧ろ記憶から消えてたもう1つの両親の方だった。

 
 
  
(…何で忘れてたんだ)

夢に見るほど記憶に焼きついてたのに、どうしてそれが自分の親だって覚えてなかったんだ。
大事にしてくれてたのに。
自分たちが助からないってわかってて、でも俺だけはなんとか逃がそうとするほど、愛してくれてたのに。

 
 
 

  
夢に見るたび鮮明になる。掌の感触と、あの青い眼。

 
 
 
  
  
あの人達は。

きっともう。

 
 
 
 
 
 
いつもと同じ堂々巡りの中にはまりかけて、また慌てて首を振る。
気分を変えたくて。裸足の上にスニーカーをつっかけて、俺は部屋の外に飛び出した。

 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
バラムに比べてずっと北緯度にあるトラビアは、当たり前だけどすごく寒い。
部屋を飛び出てきて5分もしないうちに指先がじんじんしてきて、俺は裸足で出たことを後悔しはじめた。
溜息をつくと、その息さえも白くなって夜の闇の中に溶けてゆく。空気はじんわり湿っぽくて、その大気中の水分がまた自分の体温を奪っていくような気がした。これじゃ頭を冷やす前に風邪引いちまいそうだ。
やっぱ戻るかな、と踵を返したその時、ちらりと白いものが視界を横切った。

 
 
「あ」
……雪だ。

 
 
通路の上の方に、明り取りのため小さく嵌め込まれている窓から、それは見えた。
さっき部屋から外を眺めた時にはやんでいた雪が、黒い夜空を背景にまたちらちら舞い出している。

 
 
 
 
(……雪降っている所が見たいな)
何故だろう。切り取られたみたいな窓の中で舞う雪を見ながら、唐突にそんな思いが浮かんだ。

考えてみたら、トラビアに到着してからこっち、夜に雪が降っているのを見たことがなかったし。それに、夜の暗い空の中で降る雪はきっととてもきれいだろうし。
思い始めると止まらなくて、俺は寮の入り口前を素通りして、エレベーターホールへと足を向ける。
マジで風邪引くかも、という考えがちらりと頭を掠めたけど、それを無視して俺は2Fのボタンを押した。

 
 
 
 
 
 

 
 
  
幸い誰とも出くわすことなく――ってこんな寒い真夜中に出歩いてる俺のほうがが酔狂なんだろう――デッキまで辿り着いて、その重い扉を押し開いた途端、今までとは比べもんにならない位の冷気が体を覆った。
「――さむ」
フリースの襟を掻き合わせるようにしながらデッキの外に歩み出る――そして、息を呑んだ。

 
 
 
「……すげえ…」

 
 
 
明るい。
まずそう思った。

 
月も出ていない真っ暗な夜の筈なのに、積もった雪が僅かな光を反射しているのか辺りは薄明るい。
まるで、雪自体が発光してるみたいに淡く白い光。青みがかって見えるのは、バラムガーデンの外壁の色を反射してるからなんだろうか。――そしてその中を、無数の雪の欠片がほの明るく光りながら舞い落ちてゆく。

 
 
大気を伝わる音まで雪に吸収されているみたいだ。
シンと静まりかえった中の、白く染まった幻想的な景色。

 
 
 
 
 
  
 

 
しばらくの間、じっと立ち尽くして、その景色を眺めていた。
凍り付きそうなほど冷たい空気と純白の景色が、頭の中にあった靄みたいなのを消していってくれるような気がして。
少しずつ、俺の中の混乱を吸い取ってくれるような気がして。

 
 
 
 
 
 
  
 
  
「……ゼル?」

もしその声が無ければ、ほんとにそこで朝まで突っ立っていたかもしれない。

 
  

 
 
 
 
 
よく知っている声。
それは解っていたけど、全然気配に気付いていなかったのと、まさか誰かが来るわけないだろうと思いこんでいたのとで、思わず肩がびくんと震えた。
ひとつ溜息をつく。口元から夜の闇に、白い息が広がり、溶けてゆく。
そうして少し気を落ち着けてから、俺は後ろをゆっくりと振り向いた。

 
鉄扉の横に立つ、すらりとした体。いつも纏めて上げられている長い金色の髪は、今はさらりと肩より下におろされている。

「……こんな中で、風邪引くわよ?」

 
 
 
 
 
 
  
先生。
そう呼びかけそうになって、その言葉を呑み込んだ。
何て呼べばいいんだろう?――『先生』?それとも、『キスティス』?

 
戸惑いが顔に出たんだろう。キスティスはくすりと笑って、言ってくれた。
「今まで通りでいいわよ、ゼル。」
俺も、ちょっとほっとして笑う。幾ら同じ孤児院で育った幼馴染だって言われても――それすらまだ受け止めきれないでいるっていうのに――、今まで『教師』、『生徒』って思い込んでいた関係を簡単に変える自信なんて、俺にはない。

 
「――先生こそ、どうしたんだよ。こんな時間に。」
「…ん、ちょっと。……眠れなくって…。」
肩をすくめて見せてから、キスティスはさくさく雪を踏みながら、隣に歩み寄って来た。
「……ゼルは?」
「――うん。俺もちょっと…」

 
曖昧に言葉を濁して空を仰いだ。
夢見が悪くて部屋を飛び出しましたなんて、言えるわけないじゃん。

 
 
 
 
 
振り仰いだ先で、雪の欠片は乱舞を続けている。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
  
 
「……すげー雪」
「……そうね…。」

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  
―――そのまま2人で、しばらくじっと雪が降るのを眺めていた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  
 
  
「――石の家も、冬は雪がひどかったわね。」

 
 
  
沈黙を破ったのは、キスティスだった。
空を見上げたままで、ぽつりと呟く。

 
 
  
「……こんな雪じゃなくて、もっと細かいさらさらした雪だったけど……、覚えてる?」

「……うん。」

 

 
覚えている。
ドアや窓の隙間にこびりついていた雪。朝になって思いっきり窓を開けると、勢いでその雪がぱっと散って、日の光を浴びるときらきら光ってきれいだった。
バラムに引き取られてからも、雪が降るたび窓を開けたりドアを開けたりして。だけど温暖なバラムの雪は朝になると殆どの場合溶けてしまっていたから、大好きな「きらきら」は結局、バラムに来た後一度も、見られなかった。

 
 
思い出した今になってみると、何で忘れていたのか不思議になるくらい、はっきりと覚えている。

 
 
 

 

「―――キスティスは」
ずっと空に向けてた視線を勢いよく引き下ろした。
黒い、トラビアの森。いくら雪が降っても、この森だけは白く染まらない。ずっと暗い色のままだ。
「……キスティスは、覚えてたのか?自分が、孤児だったって」

 
 
「……『覚えてた』わけじゃないの。私は、『知ってた』から」
キスティスが答えるまでに、数秒の間があった。
怪訝そうに見た俺の視線を受けて、小さく苦笑を浮かべる。
「……つまり、ね。引き取ったんだから役に立て、みたいに言われて育ったら、忘れる暇も無いってことよ。」

 
 

 
 
 
「……俺は、忘れてた。」

俯いたまま、呟いた。
雪の積もってる手すりに腕を預けて、足元に広がる暗闇をじっと見つめる。
けして埋まることのない、黒い空間。白い景色の中、まるでそこだけぽっかりと穴が開いてるように見える。

「………全部、忘れてたんだ…。」

 

 
 
 
  
忘れていた。

雪のことだけじゃなくて。
他にも、まるでバカみたいに色々。

 
 
 
 
 
 
石の家で、大事にしてた絵本を破られて悲しかったこととか。
引き取られたバラムで、海の色の青さにびっくりした事とか。
まま先生の、寝る前に物語を読んでくれた優しい声とか。
ぱぱ先生の、泣いている俺を慰めてくれた大きな掌とか。

 
 
俺がバラムの両親とは血が繋がってないってこととか。

 
 
 

 
 
俺が一度、両親を失ったんだってこととか。


  
 
 
 
  
 
  
 
  
(――何で、忘れたんだろう?)
もう何度も繰り返した問い。
何度繰り返しても、答えの出ない問い。

それでも繰り返さずにはいられない。

 
(――何で?)

 
幸せだったから?
俺にはもう、必要無い記憶だったから?

 
 
 
 
 
 
 
 
 
  
 
  
「……覚えてたほうが、良かった?」

 
キスティスの静かな声に、俺は顔を伏せて小さく頷いた。

 
「――うん」
 
 
 
 
 
 
「……だって覚えてたら、2度もこんな思いしないで済んだ。」

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  
 
  
泣いちまうかも。
 
 
そう思うより早く、涙は頬を伝っていた。
ぽろぽろと、後から後からこぼれ落ちてゆく。

 
 
 
 
 
 
いい年して、こんなふうに泣くのって情け無いかな。
でも、今くらい泣いたっていいよな?

 
 
 
 
 
 
手すりに顔を伏せたまんましゃくりあげた俺の背中に、キスティスの暖かい手が乗せられて、優しく撫でられた。
何度も撫で続けるその手の動きと暖かさが、何だか無性に懐かしかった。
その懐かしさが、バラムの記憶からか、孤児院の記憶からか、それともその向こうにある消えかけた記憶からなのか、解らなかったけれど。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
――覚えていたかった。

――何があっても、覚えていたかった。

 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
  
 ふわりと舞い降りた雪が、また暗がりに溶けて、消えた。

 
 
 
 
 
 
 
                                                END





ずっと書きたかった話。
ゼルはトラビアでどこまで思い出したのかな、と

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